1979年、生駒山地の麓にあたる大阪府四條畷市で、父親はサラリーマン母親は看護師、
という、ごく一般的な家庭で生まれ育ちました。
不自由せず暮らしていましたが、小学校4年生の時に両親が離婚。
「お母さんのとこについていきたい!」と言いましたが、大人の事情で父子家庭に…。
当時は離婚する家庭も少なく、参観日に自分のとこだけ父親が来るのがとても嫌でした。
それ以後は心の中に穴が開いたような気持ちになり、段々と学校を休みがちになっていき、中学校2年生からはまったく学校に行かなくなりました。
そんな時に知り合いの人に「学校に行ってないんやったら、仕事に来ぉへんか?」と内装業の仕事に誘われました。
その時は早く自立したい気持ちがあったので、まだ中学生でしたが、内装業の手伝いにいくことにしました。
その後も学校には全く行っていませんでしたが、なんとか卒業させてくれ、卒業式の次の日には家を出ました。そして内装職人の見習いとして、親方の家に住み込みで働くようになりました。
今でも初任給の3万円を自分の力で稼いだ時は凄くうれしかったのを覚えています。
住み込みでの職人修行時代は厳しく、朝早くから夜遅くまで休日も2~3か月に1日ぐらいだけでした。
それでも親方や師匠は仕事の技術や社会人としての責任感、お金を稼ぐ厳しさなど、それこそたくさんのことを全力で教えてくれました。
最近ではブラック企業などとよく言われたりしますが、自分の腕一本でお金を稼いでいる人たちは凄い情熱を持っており、またその心が必要だということも学ばさしてもらいました。
仕事以外でも色々と遊びにも連れて行ってもらいました。
親方や師匠は酒癖が悪かったので、よく介抱させられたのも今となってはいい思い出です。
それから住み込み修行を始めて3年、18歳で一人前の太鼓判をおしてもらい、晴れて一人親方として自立することができました。
同年代が高校生ぐらいのときにも関わらず、しっかりとした生活ができる収入を得ることができました。
社会人としての自信も持ち、周りの得意先の人にも気に入られ、順風満帆かと思いきや、自分の中にある心が芽生えてきました。
「このまま職人続けていっていいのやろか?」
特に今の生活に不満があるわけでもない、でも何か心の奥底に引っかかるものがありました。
そこから毎日のように自問自答するようになり、あることが引っかかっているんじゃないのかと気づきました。
それはやりきった思いも持たないままで、中途半端に学校に行かなくなり、今に至った後悔の気持ちでした。
また自分自身の可能性をもっと広げるため、学業に挑戦したいという想いもそこにありました。
それでも「今更・・・」とか「中学中退レベルの学力だし・・・」など不安ばかりが先立ちましたが、親方や師匠にこの話をした時「お前なら絶対できる」と言って背中を押してくれました。
何よりもたくさんのことを教えてもらい、また最後にゼロから新しいことに挑戦する大事さも教えてもらった気がします。この職人時代に学んだことが今でも自分の芯になっています。
内装職人をきっぱり辞め、より専門的な勉強をするには大学や専門学校に入る必要があります。
そのためには高卒の資格がいるということがわかりました。(当たり前ですが・・・)
そして大学入学資格検定という高卒の資格をとるために予備校に通うことにしました。
16,7歳の子と肩を並べて、それこそ8年ぶりの授業や勉強でしたが、一度決めたことであり、次は後悔がないように必死で昼夜を問わず猛勉強し、退職してから4か月後の大検試験に見事一発合格しました。(本ばっかり見てたためか、視力が2.0→1.0に落ちました)
それからの進路は、今まで目上の人に色々教えてもらい助けてもらったので、そのような働き盛りの人を助けるような職業に就こうと思っていました。
そして職人時代に治療を受けたことがある、鍼灸の学校に行くことを決意しました。
初めて鍼灸治療を受けたときは、なんでこんなもので体が楽になるのか不思議に思っていましたが、まさか自分が後になってその職を目指すとは、当時の自分には思いもよりませんでした。
ところが、今までの予備校の学費で貯蓄は底をついてしまいました。
鍼灸学校の学費を貯めるには時間がかかると思っていた時に、ふと父親が
「俺は若い時、日々の生活をしていくのでいっぱいいっぱいで、夢を持ったりせず過ごしてきた。夢をもって挑戦するのは立派だぞ!」
と言いそっと専門学校の学費を工面してくれました。
父親も群馬県から集団就職で大阪にきて、仕事をしながら夜間高校に通っていたので、自分のやりたかった勉強より、日々の生活や仕事を優先しなければいけなかったようです。
時代背景的にも、そのような時だったかもわかりませんが、自身も自分の力でお金を稼ぐ厳しさも経験していましたし、男手一つで育ててくれ、色々心配もかけましたので、心の底より感謝し涙がでました。
そして、翌年に鍼灸の名門である行岡鍼灸専門学校に合格しました。
合格すると、いち早くしたのは現場の生きた経験をたくさん積むことでした。
専門学校の入学までは半年ほどありましたが、合格通知が来た日から1週間後には鍼灸院での研修を始めていました。
在学中は知識のみに偏らないように、鍼灸院、整骨院、整形外科などで常に技術と知識の経験を積みながら、鍼灸の勉強会にも積極的に参加し、鍼灸師免許をとってから後「その先の一人前」を常に念頭に置いて行動していました。
鍼灸の国家試験合格後は、東洋医学と西洋医学が同時に学べるところで働きたいと思っていました。
そして全国でも数少ない病院併設の、東洋医学研究所土庫鍼灸治療所に運良く入職できました。
この職場では東洋医学と西洋医学の、長所と短所を勉強させてもらいました。
鍼灸外来、在宅往療を中心に、入院患者の病棟施術、末期癌患者の緩和ケア、西洋医学との医療連携、その他外科手術や漢方外来なども見学しました。
一般的には、鍼灸師は西洋医学のアプローチをほとんど経験しませんが、病院医療の現場だったので身近に経験することができました。
そのため普通鍼灸院には来ないような重症例や、原因不明の症状を多く担当しました。
この時の経験が三つ柱治療院独自の「末梢神経を整える施術法」「痛みの原因を特定する技術」に結びついています。
そして私が施術担当した方で、忘れられない言葉があります。
「残された時間を精一杯生きます!」
その方は30代後半でしたが、末期のがんで胃と腸をほとんど摘出し、余命数週間という状態でした。
彼女はそんな状態でも、死への覚悟と生きる決意をもっている、そのような輝いた目をしていました。
終末期を見さしてもらいましたが、それ以来その言葉が胸に突き刺さり、自分の人生の決意というものは何かを考えるようになりました。
それから入職して10年が過ぎ、来院された方や友人、身内も含めて人の生と死というものを多く経験しました。
それらを見てきて、自分なりに「人の命には限りがある」という事を意識するようになってきました。
今自分にできる社会貢献は何なのか、自分が今まで積み上げてきた経験で何がしたいのかを考えたとき「自分の技術と想いを必要としている人に届ける」という決意に至りました。
その人生の決意を胸に平成30年6月、橿原市にて「三つ柱治療院」を開院しました。
「精一杯生きる」
そんな時間を過ごしている人はすごく充実しています。
私はそんなときが一番幸せだと想います。
体も心も健康なのが理想ですが、体は歳と共に衰えていきます。
しかし心が健康であればいくつになっても有意義な時間は過ごせます。
そういう意味では心が衰えることはないのかも知れません。
時間というものはどんな人でも平等に流れていき、そしていつしか終わるときがあります。
長い短いはあれ限られた時間で、どれだけ幸せな時間を過ごすかが大事です。
あなたの幸せな時間はどんなときですか?
私が関わることであなたの時が、幸せで「有意義な時間」に変われば幸いです。
私自身、決して人に誇れるような経歴、学歴や勲章などはありませんが、この文をお読みいただいているあなたが、「健康で有意義な時間」を過ごしてもらうため、人生の決意を信念にし、これからの時を捧げていく所存であります。
是非あなたの幸せな時間をお聞かせください!
三つ柱治療院 猪之良 武